父の命日

本日、8月16日は父の命日だ。今年で3年がたつ。
今の今まで、私はその事実をすっかり忘れていた。昨日が終戦記念日だと言うことも知っていたし、その事をクラスで数人のクラスメートと話していたにも関わらす、今日が父の命日だと言うことを思い出さなかった。
今、学校の復習を終えてから、英語で日記を書いていた。先生が添削してくれるのだ。たまたま「孤独」をテーマに書いていて、今までの人生の中で特に父が死んだ時、その後にもの凄く大きな孤独感を味わったと書いた。ふと「お父さんが死んでしまってから、もう3年経つのかなぁ?」と思い、次に「あれ、いつ死んでしまったんだっけ?」と考え始めた。すぐには思い出せなかった。今使っている手帳のページを繰りながら、しばし考えた。確か特別な日の次の日だった…ハッと気付く。終戦記念日の次の日だと。そして次の瞬間、昨日が終戦記念日だったと思い出す。と言うことは…今日が父の命日ではないか!と驚いた。


私は父の命日を忘れてしまっていた自分に少し動揺し、大きく驚いた。父の命日、死んでしまった日を忘れてしまうなんて、今までの人生の中で一番辛い日なのに…という思い。しかしその後に訪れた気持ちは、自分が父の命日を忘れてしまうくらい、今、父の死から自分が立ち直っている事を実感した。父の死でポキンと折れてしまった私の中の生きる歓びが、少しずつ回復していたと思っていたら、今や真っ直ぐ伸びているではないか。今の忙しく充実した生活の中で、父の死というものが重くのしかかってくるものではなく、自分の中に自然と存在し、空気のようにいつもは見えないけれど必ず存在するような、そんなものになっているのだと思った。


もちろん今でも父の死を考えたり、共に過ごした闘病生活、亡くなった瞬間やお葬式などを思い出すと胸が締め付けられる。まさに心臓をぎゅっと握りしめられる感じだ。今日が命日だと思い出し、様々なことが脳裏を駆けめぐり、少しの間涙した。つい最近も他のことでとても悲しいことがあって、色々な事を考え出した途端、父の死がよみがえり涙したことがあった。父の死はやはり今でも、とてつもなく悲しい出来事だ。
クラスの授業のなかでや友人の間で父や母、夫や兄弟のことを話す機会が沢山ある。父のことを話す時は誇らしい気持ちと共に、そこはかとない悲しさが私の心に芽生える。もちろん表にはその気持ちは出ないけれども。またクラスメートが両親のことや父親のことを話していると、心から羨ましくなる。両親が健在しているという幸せに。
しかし、父の死というものが自分の中でハッキリと受けとめることが出来、なおかつ父の死を認め、亡き父の事を普通に話すことが出来るようになったと思う。私の父は既に死んでしまっているけれど、新たに私の父のことを知る人がドンドン増えている。私の口を通して。死んでしまい、その身体、存在がこの世の中から消えてしまっても、こうやって父の存在は私や家族、父の友人たちの中で、そして一回りも二回りも確実に生き続けるんだなぁと実感する。父は死んでからも多くの人に語り継がれるような大きな人だった。私はこれからも父の事を語り継ぐだろうし、父と共に過ごした日々を自分の糧にして生きていきたいと思う。


今私の心はとても穏やかな気持ちで満たされている。