おばあちゃんが帰ってきた。

夫のおばあちゃんは一昨年の10月に脳内出血で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。おばあちゃんは生前から「献体」(亡くなった場合、医学生の勉学の為に解剖などをする制度)を希望していて、亡くなるとすぐに大学病院へ運ばれていった。やっと、おばあちゃんが骨になって我が家へ帰ってきた。私と夫は今、おばあちゃんが一人で住んでいた家に二人で住んでいる。
おばあちゃんは夕飯を食べ終えて洗い物をした後、台所で倒れた。そして近所の人に翌朝発見されて病院へ。最後まで意識は戻らなかった。
亡くなる一ヵ月前に二人でおばあちゃんの家に遊びに行く。とても喜んでくれて、二人で一緒に肉じゃがを作った。三人で食事をした。孫の彼は食後に寝てしまう。おばあちゃんが昔やっていた三味線を出してみせてくれる。昔、夫が小さかった時のことを話してくれる。一時間くらい話す。そろそろおばあちゃんが寝る時間だからと帰る。帰りぎわに「また遊びにきてねぇ。電話でもいいからちょうだいよぉ。」と大きな声で言う。おばあちゃんは耳が遠いから声が大きい。うんうんと約束して帰る。快活でサッパリしたおばあちゃんで「一人が気楽でいいのよぉ」といつも言っていたが、その日は「一人だと話相手がいなくて淋しいわぁ。たまには遊びにきてね。」と言っていた。亡くなる一週間前に、私一人仕事が休みで、おばあちゃんはどうしてるかなと思う。遊びに行ったら喜ぶだろうな。一人で行こうかな。でも疲れていて、足が向かない。「電話でもいいからちょうだいよぉ。」という言葉を思い出し、かけようと思う。かけたら喜ぶだろうなと想像する。でも私はかけなかった。何
だか仕事で疲れ切っていて、「また今度でいいや」と思って。
でも、「今度」なんて存在しなかった。再び会ったおばあちゃんは、大きな声で喋りもしなかったし、大笑いもしなかった。ただ病院のベットで随分小さくなって、人工呼吸のマスクを付けられチューブをつながれ横たわっていた。医者は、もう意識は戻らない、延命措置をしても意味がないと言う。夫の母が海外に行っていたので、帰ってくるまでなんとか命をつなげてもらう。最後はあっけなかった。医者が「それじゃあいいですか?」と言い、家族が「はい」と言い、すると突然、心肺をはかる機械が持ち込まれ電源が入れられる。「ピー」と線が一本線になり「0」の数字が出る。医者がペンライトでおばあちゃんの目を開き見る。時計を見て「何時何分ご臨終です」と言う。涙がボロボロこぼれた。
なんで電話しなかったんだろう。10分でもいいから顔を見せに行けば良かった。もし私が一週間前に会っていれば、何か倒れる前の兆候を見つけて病院に行けたかもしれない。おばあちゃんが死んでしまったことが自分のせいの気がする。
おばあちゃんの家に行く。倒れた台所に立つ。冷たい古い板の間。しゃがんで床を撫でる。医学書を読むと、倒れてから意識のある人もいるようだ。おばあちゃんは意識があったんじゃないか?倒れて吐いて、冷たい床の上で何を考えただろう。助けを求めたくても体が動かなかった。隣の部屋の電話台には救急車を呼ぶ番号や家族の番号が大きな字で書かれ張りつけてあった。なんだか全てがもどかしかった。おばあちゃんを一人きりで倒れさせてしまった自分を考える。考えだすと止まらなかった。亡くなってからしばらく毎日泣いた。耐えられなかった。道を歩いているお年寄りを見ては泣いた。「遊びにきてねぇ。電話でもいいからちょうだいよぉ」という最後の言葉が頭から離れない。なんで、なんでと自分を責める。
昨日は「おばあちゃんを偲ぶ会」が我が家で行なわれ、10人くらいの友人達が集まり、おばあちゃんについて語ってくれた。いつも誰かが顔を出すと「上がってお茶のんできなさいよぉ」と言っていたみたいだ。その家にやっとおばあちゃんは帰ってこれて、友達がわいわい語り合ってくれている。おばあちゃんも嬉しいだろうなと、ふと思う。みんな、おばあちゃんは自分の好きなことをやって幸せな人生だったという。孫が結婚したら、お嫁さんと一緒に遊びにきてくれるようになったと喜んでいたよとも言われた。それを聞いて少し気持ちがやわらいだ。でもそれは自己満足だなと思う。でも、私の気持ちはともかく、すごくおばあちゃんの人柄がわかる良い会になった。良かった。納骨もして一区切りが着いた。
私はもっともっと人を大事にする生き方をしていきたい。改めて強く思う。人との関係を「いつか」「今度」と考えていたら、絶対にその瞬間は訪れない。自分の中にある人に対する愛情を大切にしながら、相手との一瞬一瞬の出会いを大事にしていきたい。もう二度と後悔したくない。周りのかけがえのない人々の中で、後悔に押しつぶされる事無く、自分の愛情を確信に力強く生きていこう。おばあちゃん、あの時行けなくてごめんね。私、頑張って生きていくよ。