言葉

言葉を発せられない人が増えていると感じる。
今日もジムの帰り道で感じたので、普段から考えていることをブログに書いてみることにした。


細い歩道を前から歩いてきた人がいたので、私は少し空いたスペースで待っていて相手に道を譲った。その人は何もなかったかのように普通に通り過ぎる。まるで私が透明人間のかのように。「すみません」とか「ありがとうございます」と一言言えない物だろうかと思ってしまうのは私だけだろうか。別にお礼を言って欲しくてやっている事じゃないけれど、ちょっとした一言を発せられない人が増えている気がしてならない。


例えば混雑した電車の中で真ん中に立っていて、降りるとき。無言でガンガン出口に向かっ人を押しのけていく人。「すみません、降ります」と一言言えば道をあけてくれると思うのだが。
例えば自転車で前から走ってきた人に歩行者の私が道を譲っても、すい〜と走りすぎる。


例を挙げていけばきっと色々出てくるけれど、言葉を発しない人間が増えている。
それは言葉を発しないのではなくて、言葉を発することが出来ないのかもしれない。他者と自分の関係を結びつけることが出来ないのかもしれない。他者が自分にしてくれたことに対して何も発しないということは①ありがたいと思っていない。②ありがたいと思っているけど言葉に出来ない③当たり前のことと思っている。などの理由があるのだろうか。
①と③の人が増えている気がする。しかしそれは個人の責任だけに転嫁することは出来ない気もする。何故なら、社会の中で、学校や会社などで他人と協調して何かを成し遂げようという風潮はないのではなかろうか。逆に分断され、ライバルとして隣の席の人とも競い合うような社会の中で、相手がいるということに対して、どう接したらよいか分からない人が増えているのではないだろうか。それは②の人にも言えることだろう。


確かに言葉を声に出すという事は結構勇気がいる。それが公衆の面前なら尚更だ。
私はこの前、勇気を出して言葉を発した。
昼下がりの電車に乗っていて、車内は随分すいていた。私の前の席には3人の少年が5席分を陣取って荷物を置き、地べたにも沢山の荷物が散乱していた。私は内心あ〜あ〜と思いながらも、まぁ混んできたら詰めるでしょと思っていた。が違った。すぐに大きな駅に着き、乗客が沢山乗り込み、私の側は全部埋まった。そしてその少年の所は誰も座らない。地べたにまで荷物が散乱していて座れないのだ。途中から男の子と、その母親が乗ってきて、どうやらその男の子たちと知り合いらしく、一つ分空いている席に男の子が座って母親は立っていた。彼らは色々会話をしていた。話しからすると中学一年生のようだ。私は、その母親が席を詰めるように彼らに注意するだろうと思っていた。しかし、そんな言葉はなく途中で降りてしまった。次々と乗客が乗ってくるが、男の子たちはそのまま。注意する大人もいない。ハッ!私も彼らの周りにいる大人の一人じゃないか。この子たちが、これが当たり前だと思って成長したら可哀相だなと思い、勇気を振り絞り言った。
身を乗り出して「ねぇ、君たちさぁ、ちゃんと詰めて座った方がいいよ。」と。
すると一人はハッとして頭を下げて詰めだした。一人は「荷物が多いいから無理だよなぁ」とかブツブツ言いながらも詰めた。そして次の駅から乗ってきた人たちが次々と座席に座った。


私も、もし座席を占有していたのが恐そうなおじさんたちとか、高校生とかだったらどうだろう?と考えると恐くて言わないかもしれないなとも思った。相手が子どもたちだったから言えたのかもしれない。しかし、沢山の大人が乗車していて誰も注意しないのに驚いた。私たちが子どもの頃は知り合いではなくても、いけないことはいけない、おかしいことはおかしいと言ってくれる大人がいた気がする。子どもの行動は大人の責任だと思う。次からは私が話しかけた男の子たちが詰めて座ってくれるといいなぁと思う。


なんだか話しがそれた気もしないでもないが、言葉を発しないと言うことは他人とコミュニュケーションが取れないということだ。これは本当に社会的な問題だと思う。
NGOなどでイラク戦争反対の宣伝で出会い話しをした青年たちの多くが「自分だけが戦争反対と考えているのかと思っていた。」「同じように反対している人がいたんだ」と喜んでいた。実は言葉に出してみれば自分の周りには同じ考えの人もいるのだ。そして、お互いが言葉にしたときに意見が違ってもいいのだ。言葉を発しない理由として④他人と違う意見なのではないかという恐怖もあげられるのかもしれない。

うーん、もっと話しがそれてしまった。まとまらないので、ここら辺でお開きに…