一人の夜、映画「息子の部屋」を観た。家族を失うことの重み、家族を失った一人一人の悲しみ、やりきれなさが丁寧に静かに描かれている。私は映画を観ながら幾度も涙した。彼らが見るもの、聞くもの全てに悲しみがあった。そこに私は涙した。そして家族が本当に少しだけれど再生していく様子も描かれていた。

息子の部屋 [DVD]



私は去年の8月に父を亡くした。
いまだに父の死から立ち直れていないと言うことに心配の声や、頑張らなくてはと言う励ましの声がある。どの人の声も私のことを心底心配してくれての声だ。


しかし、私が知って欲しいのは、家族が亡くなったと言うことの、私にとっての大きさ。死というものは人によって、関係性によってその大きさが全然違うと言うこと。私にとって父が亡くなると言うことがどういうことかは誰にも理解できないかもしれない。でも、私が父の死に向かい合い続けていると言うことを許して欲しいのだ。いつか、そこから違う方へ目が向くときが来れば自然と羽ばたいていけるだろう。それまで待っていて欲しいのだ。私は父にこだわっている。父の死に。父が生きていたということに。人の死に向き合うと言うことは、その人が生きていたということにこだわると言うことだと思う。


父のことを思うとやりきれなくなる。私は父を死なせないと思っていた。絶対に生きさせると思っていた。奇跡を起こそうと思っていた。様々な本に書いてあるような奇跡を。絶対に病気になんか負けさせないと思っていた。でも、目の前の父は確実に死に向かっていた。毎日接する中で父の変化は手に取るように分かった。それでも私は諦めたくなかった。絶対に死なせたくなかった。私は父が死に向かっていくのを見ていた。様々な努力をした。努力が足りなかったかもしれない。でもとにかく、毎日父に会いに行ったんだ。父は日増しに食べ物が喉を通らなくなり、呼吸が困難になり、話をすることが辛くなり、起きあがることが出来なくなっていった。それでも父は最後の日まで自分で選んだ、癌を克服するためのサプリメントを飲み続けた。薬を飲むこと自身が大変な作業なのに。父自身も絶対に治す気でいたんだ。そんな父の姿が脳裏に焼き付いている。


こんなブログを数日前に書いたら、その日は自分の書いたブログのせいで号泣した。父との日々を思い出して。泣きすぎて頭が痛かった。


私はいまだに、父の写真を部屋に飾れないでいる。でも、泣くことは少なくなった。父との思い出をふんわりと考えられるようになってきている。何が前なのかは分からないけれど、前に向かっている気がする。