悩む

アメリカのフロリダ州かどこかで次のような裁判があった。「生きる権利」と「死ぬ権利」をめぐる裁判だ。ニュースで少しだけ見ただけだが考えさせられた。
植物人間状態になってしまい、もはやチューブによって送られる栄養によって生きている女性。その女性の生死をめぐる問題。その夫は「彼女は尊厳死を望んでいた」と言う。両親は「まだ回復の余地がある」と言う。彼女の意志が明確でなかったとして七年間法廷で争われた。「尊厳死」とはすなわち、彼女の生きるすべであるチューブを抜くということだ。判決がでた。「尊厳死を認める」と。全米を巻き込んでの議論となったようだ。
チューブが抜かれ14日後に彼女は亡くなった。
「死ぬ権利」「死なせる権利」を人間は持っているのだろうか。私はいつもこのような問題に出会ったときに悩んでしまう。彼のおばあちゃんも、生前、もし植物人間になったら自然に死なせてほしいというようなことを言っていたらしい。チューブにつながれるのは嫌だと。そして倒れた時、彼の母(おばあちゃんの娘)が到着するまでチューブにつながれた。が到着しまもなくチューブは抜かれた。それが、おばあちゃんの意志だったから。でも私はやはり、前述のアメリカの両親のように「回復の余地があるのではないか?」と考えてしまう。何をしてでも生きていて欲しいと思ってしまう。それは周りにいる人間のエゴだろうか。
私の父が意識不明になったときも似たような判断を迫られた。意識がなくなった日、兄弟三人と母が病院にいた。医者の説明によると、ある薬を使うと延命ができるという。その長さも人によるし、投与しても亡くなってしまう人もいると。そして付け加えた。このまま自然に息を引き取らせてあげてもいいのでは?お父さんは十分頑張りましたからと。家族で話し合った。母は子どもたちで決めてほしいといった。私以外の二人は、自然に息を引き取らせてあげようと言った。私は反対だった。少しでも長い時間父に生きてほしかった。毎日看病していた中での父は、とても強かった。肺癌だったため肺に水がたまり呼吸が困難な中でも、治して元気になるために必死に食事をし薬を飲んだ。毎日が父にとっては闘いだった。父は自ら闘う道を選び取り、様々な治療を行なってきた。そんな毎日を見てきた私は、勝手に周りが「自然に息を引き取らせてあげよう」なんて判断できなかった。もし父だったら辛い道でも生きる道を選択したと思った。だから私は反対した。結局母が、一人でも反対する人がいるなら、後悔するから薬を使おうと判断した。結局父の命はそんなには長らえなかったが。私の判断は正しかったのだろうか。でも父の立場に一番寄り添った判断だったと確信している。
冒頭の裁判の「生きる権利」「死ぬ権利」は、本人の意思が明確でない場合、周りの人間にとっては「生かす権利」「死なす権利」になる気がする。私は愛する人がもし植物人間になった時、相手が「尊厳死」を望んでいたとしても、それを認め「尊厳死」を判断できるだろうか?今は、できないが答えだ。相手に生き続けてほしいと思ってしまう。それは、本当に自分のエゴかもしれないが。
この問題、皆さんはどう考えますか?